安養寺について

内陣のお飾り画像

【 歴史 】

名称 : 経坪山安養寺

開基 : 明順

開創 : 慶長十五年(1610年)

 

安養寺の開基明順は肥後菊池氏の末裔。字は龍玄。
安養寺略縁起によると、肥後国隈部に在城する菊池相模守藤原武光の三男・長野武利三代の子孫にあたる長野将監利冬の子孫と記されている。

仏法を広めるために熊本より島原に移ると、原城主有馬氏より寄進を受けて多比良村に寺院を建立し『安養寺』と号した。
後に、有馬氏が移封され、松倉氏が領すると、その招請を受けて城下桜町に寺院を建てこの寺を『安養寺』と称し、それに伴い多比良村安養寺は『正覚寺』と改称し、子の休意に任せた。
また、慶長十七年(1612年)には舎弟の菊池庄兵衛を肥後長崎より呼び寄せ、剃髪させ法名を明玄と授け、大野村にて『勝光寺』の建立に尽力したとも伝えられる。

このような歴史があり、現在でも安養寺・正覚寺・勝光寺は法流を同じくする親戚寺となっている。

明順は、最後は守山村『大福寺』に隠居し、その地にて入寂。墓碑は大福寺境内にある。

 

寛永十四年(1637年)には、日本の歴史上最大規模の一揆である島原の乱が起きた。
一時、一揆軍が島原城下に押し寄せた際、島原市内の某寺院では一揆軍に占領されたという歴史が今に語り継がれているが、安養寺に関してはどうであったのかは次の出来事の為不明である。
なお、安養寺の山号である『経坪山』は、境内に大乗妙典を埋め一揆の戦没者の追悼法要を勤めた事に由来すると伝えられている。

 

寛政四年(1792年)旧暦四月一日におきた島原大変の大津波により、安養寺は本堂他法物も悉く流出し、第十世寛興並びに有縁の門信徒一千名弱が流死の災厄に遭った。
この為、第二世より第八世住職までの過去帳も含めた詳細な記録が全て失われることとなった。 現在、第十世寛興および寺内十余名、並びに門信徒の流死者の法名約一千名の記された過去帳が残っている。
なお、その災害を生き残った長男の龍珠(第十一世)により再建されたのが、現在の安養寺の本堂である。 安養寺本堂の再建が実現するまでには実に十七年の歳月を要している。

 ⇒詳しくは【島原大変(寛政地変)】

 

その他の安養寺にまつわる話

 ⇒【火葬場建築の話し】

 ⇒【竹久夢二と安養寺】