火葬場建設の話

現在、島原市の火葬場として使用されている「しまばら斎場」(上の原三丁目6188-2)が、安養寺が建設した火葬場から始まっているという話は、現在では知る人もいない忘れ去られた歴史です。
安養寺には当時の資料がまだ残っていますが、この資料もいつの日か失われてしまうかもしれませんので、記録としてここに記します。

 

明治中期、島原の人口増加にともない門信徒用の墓地が不足してきた安養寺が、新たな墓地の造成に取り組むことになりました。
そこで、島原村萩原地区の住民達が所有し、萩原地区住民の墓地としていた現在の上の原3丁目の土地について、安養寺門信徒の墓地として永代に借用する旨の契約を萩原地区住民の代表である萩原人民総代と結び、墓地を整備造成することになりました。
その時、安養寺住職 菊池寛容と萩原人民総代とで交わした契約書が下の「墓地借渡定約証」であり、明治25年4月13日となっています。また、図面下部の貸渡地とあるのが、現在も安養寺が管理している上の原墓地となります。

土地永代借用定約証貸渡地図

 

さて、その当時の様子はというと、

然ルニ一新以来火葬ヲ禁止シラレテヨリ一般土葬トナリ寺院境内ハ墓地弥々増設シ狭隘日ヲ逐テ甚シク今日ニ至リテ餘地ナキニ至レリ近年火葬解禁以来百中三五ハ火葬復ス軽便ニヨリ土葬者多ク衛生ヲ欠ク慮無トセス (明治30年 小松原長崎縣知事閣下宛 建議書より)
(現代語訳)
しかしながら、御一新以来(明治以降は)、火葬禁止となり、一般に土葬が行われるようになり、寺院境内は墓地をいよいよ増設し、日を追って狭くて余裕がなくなり、今日に至っては墓地にするだけの余地もない状態に至っております。近年、火葬が解禁となって以来、百中に三五(15パーセント)は火葬にもどっておりますものの、手軽さから土葬する者も多く、衛生面での心配が無とは言えないのであります。

とあり、また、

個別窯ト称シ各地ニ火葬仕候而者不潔甚敷白骨壘壘路傍ニ離散シ洒掃モ届兼一度此地ヲ過レハ嘔吐ヲ催スニ至レリ(明治32年 長崎県知事服部一三殿宛 書簡より)
(現代語訳)
個別窯と称して、各地で火葬をおこなうようなことでは不潔甚だしく、白骨が塁々として路傍に散乱し、掃除も行き届き兼ね、一度この地を過ぎる者は、嘔吐を催すほどであります。

とあるように、土葬が85%、火葬はわずか15パーセントほどで、その火葬についても各々が各地で火葬を行うなど、衛生面が心配される状況であったと記されています。

そこで、墓地の隣接地に新しく改良された火葬場を建設しようと、安養寺住職(菊池寛容)が土地の所有者である萩原地区住民に再び相談すると、萩原地区の住民の承諾を得ることができました。(明治31年2月9日)

火葬場建設承諾書火葬場建設地

 

こうして萩原地区住民の承諾を受けて安養寺が上の原墓地の隣接地に建設した火葬場が、現在の「しまばら斎場」の始まりとなります。
その当時の資料を見ると、火葬場建築の仕様書に費用として530円と記されています。当寺、小学校の教員の初任給が月8~9円であったそうですので、安養寺にとってもかなりの出費であったことは間違いないようです。(下、火葬窯の図面と明治32年8月5日付火葬窯の仕様書)

改造火葬窯図火葬窯仕様書

 

なお、この建築した火葬場は、その後明治43年6月8日に譲渡されることになります。